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今日を初めてにする、ウェルエイジングマガジン

「毎日走る」をやめてみたら、走るのがちょっと好きになった。

『WELMAG』の特集「捨て活」では、心身の変化も感じやすくなる年代が、家や職場での役割が増える中で抱え込んでいるモノ・コトや、自分に合ってないと感じながらも続けている習慣などを手放していくヒントを集めました。何かを始めるには、まず何かを手放すことから。美容や運動、ファッション、食、仕事といったライフスタイルの切り口から、新しい生活習慣を始めるきっかけを、お届けします。

小さなきっかけからの、走るモチベーションの低下

新卒で入った新聞社を辞めてフリーランスになったタイミングで、毎日のランニングを始めた。通勤時間がなくなると、まったく体を動かさなくなると思ったからだ。少しずつ走行距離を伸ばし、1年経つ頃には月に160キロを走るようになっていた。

私はまったくもって運動神経の良い人間ではないので、毎朝走ることは、正直言ってかなり気が重い。毎日毎日、ああ走りたくない走りたくないと思い、朝起きて雨が降っていると「走らなくていい!」と喜んでいる。

それでも基本的には小雨の日も雪の日も大好きなヤクルト・スワローズが大敗した翌日(しょっちゅうある)も、かれこれ6年以上走り続けてきた。

ところが去年の年末あたりから、ランニングの頻度が落ち始めた。距離も伸びなくなってきた。

きっかけは、ほんの小さなことだ。年末年始の旅行にランニングシューズを忘れたり、「ICL」という目の手術を受け、しばらく運動は控える必要があったり、体調を崩して走れなくなってしまったり。そうしているうちに、なんだか少しずつ、ランニングのモチベーションが上がらなくなってしまった。

あれだけ毎日走っていたのに、少しでも間が空くと、どんどん走りたくなくなる。というか、そもそも走りたくないものを、なんとか「習慣」でごまかして走っていただけなので、「走らない理由」があれこれできるともう、それにのっかり走ることから目をそむけ続け、「別に走らなくても人は死なないし」という開き直りがどんどん侵食していった。そう、それは、まさに「侵食」といった、走る習慣をじわじわと蝕んでいく感じだった。

筋トレの、ランニングへの影響

もう一つ、ランニングの頻度に影響を与えているのがジムでのトレーニングを始めたことだと思う。

ランニングを続けていると、全身がそれなりに絞られていく。でも、体の各部位、特におしりは、自宅での「宅トレ」を加えてみてもどうしても変わらなかった。年齢と重力に対抗できない。そこで1年半ほど前にジムに通い始めた。打倒、重力。

おかげで少しずつではあるけれども変化が現れた。体脂肪は減り、筋肉量は増えていった。おしりも少しずつ少しずつ、重力に抗うことを覚え始めた。体に変化が起こる新鮮さもあって、ジムに通い始めてからしばらくは、その楽しさにのめりこんでいった。

さらに、ちょうど世は筋トレブーム。「筋トレ界」では、どちらかというとランニングをはじめとする有酸素運動は、ボディメイクへの優先順位は高くない、という空気があるように感じられた。そうすると、毎日こんなにしんどい思いをしながら走らなくてもいいんじゃない?と、心のどこかで感じ、それと葛藤するようになっていた。

それでもしばらくは、ランニングとジムのトレーニングを両方続けた。毎朝5時から1時間走り、その後中学生の息子のお弁当を作り、ジムのウェアに着替えてジムに行き、そこから1時間ほどトレーニングをした。

やってできなくはないスケジュールだったけれど、1年くらいたった頃から、なんとなく、風邪をひきやすくなったり、疲れやすくなったり、仕事に集中できなかったりということが増えてきたような気がした。

そもそもおしりの「打倒、重力」というきっかけで始めた私にとって、このスケジュールは、少しハードすぎるものになっていたのかもしれない。

「走らない」勇気、そこで気付いた「好き」による選択のこと

私は思い切って3週間ほど、ランニングもトレーニングも休んでみることにした。

感染症にかかっても、療養期間が終わって1週間後には走り始めていたので、3週間も走らない日が続いたのは、6年半で初めてのことだった。

早起きをしなくていいので夜ふかしをして、生まれて初めて韓国ドラマにはまった。家事の時間がちょっと増えて、毎日洗濯物をたたむようになった。仕事の開始時間も早まった。これはこれで、充実した日々にも思えた。

でも、当然のことながら、体重は増えた。そして、食生活に気を使わなくなった。「どうせ走らないし筋トレもしないし」と思って、たんぱく質を意識的にとったり脂質を控えたりするのをやめ、なんともわがままなバディーができあがり、それを直視するのがいやで鏡を見なくなり、体重計にも乗らなくなった。

そうして3週間を過ごした結果、私は思った。

「……走りたい。」

毎日毎日、「ああ走りたくない」とぶつぶつ言いながら走っていたけれど、走るのを休んだら、そう思った。知らなかったのだけれど(いや、本当に)私は走ることがどうやら、嫌いではなかった、らしい。

自分に合った運動や、そのペースというのは、きっと人によって違う。運動神経が抜群に良い人が全員野球選手になるわけではなくて、それぞれ、サッカー選手になったり、陸上選手になったり、水泳選手になったりする。

そこには、きっと「好き」の感情による選択が含まれる。私はまったくもって運動神経は良くないけれど、そんな私でも続けていけた運動が、ランニングだった。たぶん、ちょっと、走ることが好きだったから。

たしかにボディメイクのことだけを考えれば筋トレだけでもいいのだけれど、私は単純に、走ることが合っていたのだ。

「毎日走る」を手放すことで知った、「自己肯定感」を無理に持たなくてもいいこと

今はランニングと筋トレを交互に、週3、4回という形で再開している。

週に40キロを走っていたときよりはずっと少ないけれど、不思議なことに、体型という意味では、毎日走り毎日トレーニングしてた時とあまり変わらない。今の自分にとってはこれが、ちょうどいいのかもしれない。

走らない時間が長かったので、2キロも走ればすっかり疲れてしまう。でも今はそれが、初めて走り始めた頃のようで、ちょっと楽しい。

基本的に何をしても続かない、特になんの特技もない自分にとって、ただ走り続けることだけは、「これだけはまあなんとかやっている」というものだった。でも、走る頻度が減り、「毎日走る」習慣がなくなってしまうと、自分の唯一の価値みたいなものが失われるような気がして焦りを感じた。私は走ることで、なんとか自己肯定感のようなものを上げようとしていたのかもしれない。

だけど、思い切ってしっかり休んでみると、「走っても走らなくても私自身の価値はどうやら変わらない」と、思えるようになった。当たり前のことなのだけれど。

走ることは、ただ日々の「プラス」になるもので、走らないことが「マイナス」になるわけではない。そもそも、「私の価値」なんて、わざわざ考えることでもない。「自己肯定感」なんて、別に持たなくったっていい。持っていようが、持っていまいが、走っていようが、走っていまいが、私は私でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。上にも下にもなれない。私はただ、走りたいから、走るのだ。「ああ走りたくない」と、言いながら。

今日もゆっくり5キロを走った。風が強くて寒かったけれども、久々にお天気も良くて気持ちがよかった。気持ちがいい、くらいをゆっくりと、続けていこうと今は思っている。時々休んで、のんびりと、自分の素直な「好き」と、向き合いながら。そうやって細く長く続けながら、80歳になってもゆっくり走っていられたらいいなと、今思っている。

Essayist

虫明麻衣(むしあけ・まい)

編集者。京都府生まれ、約12年の新聞社勤務を経てフリーランス。平日はランニングと筋トレをするが、食とお酒が大好き。洋服と旅のために働いている。好きなものはヤクルト・スワローズの逆転勝ち。すぐ旅に出がち。最近のお気に入りの旅先は韓国。

CREDIT

Text&Photo / Mai Mushiake
Edit / Mai Miyajima
Production / Quishin Inc.

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